淡山疏水隧道群


兵庫県

淡河川疏水編

その8

  


                    2013年4月訪問


 これは現地の案内板です。
 その7までのレポでは右上の宮ヶ谷調整池や呉錦堂池にすら辿りついていません。

 こちらの案内板でみると、淡河川頭首工からの疎水の流れは芥子山隧道から暗渠に繋がり、宮ヶ谷調整池に直接流れ込んで
いるようです。
 一方の山田川頭首工の流れは現在廃止、大川瀬導水路から呑吐ダム、宮ヶ谷調整池や呉錦堂池に注ぐ東播用水の流路として
一部転用されています。
 取り敢えず宮ヶ谷調整池を見に行こうと思います。
 当時は案内板をちゃんと見てなくて、この宮ヶ谷
調整池で確認したのは吐口のみ。
 この宮ヶ谷調整池から吐き出される坑門です。
 池側は水門しか見えませんが、吐口に回り込んで
みると…
 このような感じで、東播用水の流れの中に入った
淡河川疎水が続いています。
 ※現在は淡河川頭首工、大川瀬ダム、呑度
ダム、川代ダムの4つを水源とした、東播用水と呼ば
れています。
 かなり改修されているように見える宮ヶ谷調整池
ですが、ここに…

 おおおお…こぢんまりとしたアーチが残されています。

 これは煉瓦アーチではなく、石アーチ、でしょうか。内部は水深があって見に行けませんでしたが、明らかに5枚の石材で
アーチを形成している模様です。
 坑門も布積みの切石、笠石部はこれまでの淡河川疎水の煉瓦アーチ坑門のものと同じ意匠のように見えます。
 こんな所に奇跡の残存です。 
 東播用水に組み込まれた淡河川疎水の流れ。
 さらに続きます。

 そして…新たな隧道が現れます。

 一見したら淡河川疎水いつものフォームを踏襲する坑門に見えますが、よく見ると決定的な違いが…

 坑門はいつものパターンで、アーチが石!と言いたいところですが…違いはそれどころじゃありません。

 …これは…石ではない、な…
 迫石、要石はおろか、坑門、胸壁、帯石、笠石も含めて全てコンクリブロックではないでしょうか。
 内部も良く見たらコンクリートです。
 ここにきて意外な展開です。これは後年改修?いや、このフォルムの答えはいずれ判明します。

 こちらが吐口側です。こちらも同じフォルムですね。

 こちらの方が見やすいです。
 間違いない、総コンクリートブロック製の坑門です。
 しかしながら意匠はかなり凝らしており、基本的に煉瓦アーチ以外は淡河川疎水のデザインを踏襲しています。
 その観点から、この隧道も決して新しいものではないことを窺わせます。
 で、これが何号隧道なのか、そもそも淡河川疎水の隧道として穿たれたのかすら分かりません。
 さらに下流に向かいます。
 すると… 

 ちょっと分かりにくいですが、先程の流れは目先のBKすぐ手前の右側から注ぎ込んでいます。
 右側から流れ込んだ水は奥のBKを潜っていきます。
 つまりこちら側の水路は全く使われていない、ということです。
 この水路は何なのか。振り向いてみると…

 こういうことになっております。
 なんじゃこりゃ???
 水路はすぐ終点になっており、終点のカベにはこのようなものが…?

 …これって…どうみても隧道の"おでこ"、胸壁部分ではないでしょうか。
 アーチ部分は水路の床に埋まってしまっており確認できませんが、ほぼ間違いなくかつての淡河川・山田川疎水合流幹線の
隧道だったのではないでしょうか。
 先程の隧道はコンクリブロックでしたが、こちらは切石です。
 なんらかの理由でこちら側の流れが廃され、先程のルートに移されてノではないでしょうか。
 因みに反対側は確認できておりません。 

 さらに下流に向かいます。
 ここが本線で最後の本格的な隧道と思われます。
 反対側の光が見えています。
 が、かなりの高延長と思われます。
 内部を確認してみると…
 ありました!煉瓦アーチが奥に見えます。

 こちらも残っておりました、煉瓦アーチ!
 ここはかなりの高延長のようです。

 びっしり煉瓦、煉瓦、煉瓦…
 本当にこの疎水で使われた煉瓦総数を知りたいですねえ。
 振り返り。
 さすがにここを完抜けする気になりません。
 上から回り込みます。

 これは通水の開始された別の時期に訪れた際の画像です。
 先程の隧道の吐口になります。呑口と違い、坑門がしっかりと遺されています。
 また、どなたでも鑑賞しやすい場所にあります。見学ならここがおすすめです。

 従来の淡河川疎水の造りを踏襲し、2層煉瓦アーチに切石の坑門を有する立派なものです。
 ただ、日当たりが良いのか、ちょっと色褪せぎみです。

 中には入れないため、ズームで。
 恐らく総煉瓦アーチと思われます。
 ここから先は隧道は確認できておりませんが、
ポイントをいくつかご紹介します。

 こちらも合流幹線の疎水です。
 右上の西濃運輸さんの敷地に沿って、昔は二十番池に注ぎ、現在の土管からまた下流に流れていたようです。
 現在では近代的なサイフォンにより二十番池をショートカットする形に変化しております。
 かつての遺構的なものは見つけられませんでした。
 西濃運輸さん方面からの流れ。
 サイフォン呑口?
 左が二十番池からの吐口
 右は良くわかりません。
 左が土管、右がBOXとなっています。
 往時は左の土管のあった所がメインの疎水吐口
だったのではないでしょうか。
 改修され、路線が変わったことからこのような姿に
なったと考えられます。
 ここに煉瓦か切石アーチの坑門があった可能性が
あります。
 ショートカットサイフォンの吐口が右に。
 真っ直ぐが本流に復帰した疎水の流れです。
 このように水が底から湧き出しています。
 生サイフォンの様子です。
 淡河川・山田川疎水合流幹線(東播用水)の流れ
はここに集まり、幹線の役割は終了します。
 そう、練部屋分水工です。
 場所はコチラ

 ここは円筒分水の見られる有名なスポットです。

 疎水の流れは円筒分水の手前で沈み込み、中央から湧き出す形で仕切られた各水路へ配水します。

 詳しい構造はご覧の通りです。
 初代は1891年(明治24年)煉瓦製で5方向に分水していた模様です。
 現在の施設は1959年(昭和34年)に造られたようで、印南・手中・森安支線、蛸草支線、天満支線、加古支線の4つに分岐
させているようです。

 往時の写真が掲載されていました。写真のものは六角形にも見えるので、水害修復後の姿かもしれません。

左:淡河川山田川疎水 県営大改修記念碑 兵庫県農林部長 ??田豊信
右:昭和34年11月竣工 練部屋分水所 兵庫県農林部抜監 廣瀬一雄
中央:頌徳碑(ショウトクヒ:徳をたたえた碑)
 「この地古来高燥にして水利乏しく田穀実らず憐むべし生民日々に疲れ離村する者続出するに至る茲(ココ)において明治の中期
 魚住完治 魚住逸治 岩本須三郎氏等先覚者の辛苦と為政者の協力により淡河山田の幹渠延々実に三十粁(30キロメートル)に及び
 渾々(コンコン)として盡(ツ)きざる水利に殖産の基礎愈々(イヨイヨ)堅く万家等しく皷腹(コフク鼓腹:食に満たされる)し以て業に安んずるに至る
 嗚呼偉なる哉(カナ)我等子々孫々に至る迄深く先人の恩沢を感銘し以て茲に功徳を頌(ショウ)す
 昭和三十六年四月
 兵庫県淡河川山田川土地改良区理事長 西海為之助 撰」

 この練部屋分水所から別れた疎水の一つ、森安支線にあるのがこの掌中橋です。
 当方では橋梁の景に掲載しておりますんで割愛します。
 こちらは大分戻りますが、宮ヶ谷調整池の東に位置
する呉錦堂池から出ている神出支線にある隧道の
確認です。
 北側の呑口です。
 蓋渠になっているようですが、少し開口しています。
 先はBKです。
 奥に光が僅かに見えます。一直線のようです。
 背の低いBKの先には少し大きな空間が。
 おお!このサイズは間違いなく疎水隧道と思われ
ます。
 ただ残念なことに全面コンクリートにて修復されてい
ます。ここも当時は煉瓦巻きだったのではないでしょう
か。
 振り返り。
 このような姿になってしまいました。
 途中コンクリの継ぎ目からおどろおどろしいつららが。
 隧道は吐口側も同様の状態になっており、嘗ての
遺構を見つけることはできませんでした。
 南側は…コレだと思います。
 こりゃどうしようもありません。

 神出支線の隧道は全面コンクリ改修を受けておりま
した。

 最後に。これは場所が場所だけにちょっと詳しい地図はお出しできません。
 我々は彷徨った挙句ここに辿りついたんですが…
 芥子山隧道よりは西側のどこかに存在します。

 これまでの淡河川疎水では一切見なかった扁額が付いています。
 造りですが、コンクリブロックになっています。これは宮ヶ谷調整池から出て少し行った場所にあったコンクリブロックと同一の造り
に感じます。
 そして問題の扁額…「第19隧道」になっています。
 何が19!?そしてこやつの正体は!???これはまたいずれ判明することになりますが、謎が謎を呼ぶことになります。

 内部はきっちりコンクリートブロックアーチとなっております。
 往時のまま、ということなんでしょうか。これも深追いはできませんでした。

 以上、現在分かっている淡河川疎水、合流幹線、支線の状況でした。
 追記はまたおいおい調査の上、ある程度まとまったらご報告いたします。

 
淡河川疎水編 一応

 次回から山田川疎水編を進めます。