旧中央本線 愛知県高蔵寺駅~岐阜県多治見駅間
その2
2017年5月訪問
その1では脱線してしまいましたが、いよいよ廃 線跡に初潜入です。いや、潜入ではなく今回は 堂々の観光客です(笑) |
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入り口にある謎の煉瓦のカタマリ、その1。 | |
煉瓦のカタマリ、その2 この煉瓦のカベには謎の滑車が? |
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「勝川駅のプラットホーム」 「旧国鉄中央線は明治33年に名古屋~多治見 間が開通しました。 開通当時の駅は名古屋、千種、勝川、高蔵寺、 多治見の5つの駅のみでした。 駅は木造の小さな駅舎とレンガ積みのプラット ホームでした。 勝川駅のプラットホームは平成21年までレンガ 積みの基礎がそのまま残っておりましたが、駅前 の再開発に合わせ駅は高架となり取り壊されてし まいました。解体されたレンガのブロックは公園の 片隅に放置されておりましたが、貴重な鉄道遺産 であり、ここ愛岐トンネル群廃線敷が整備された のに合わせ同時期の鉄道遺産として、モニュメント の形で保存する事にしました。 レンガ積みのプラットホームは多治見駅1番線 プラットホームの基礎に残っております。 なお勝川駅解体レンガは現在の勝川駅前の広 場にも展示されています。」 現地の掲示板より。 |
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いい加減入場しましょうか。 結構急な階段を上がります。 |
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んんん? 「斜面に埋もれていた枕木」 「階段作りの最中に、土の中からこの枕木1本を 発見!40年以上経った今でもしっかりと自己主張 しています。 ※階段に使用している他の枕木は外部から持ち 込んだものです。」 埋まっていた枕木を再利用ですな。 |
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この階段枕木は余所から持ち込んだものです な。 そして遂に路面に! |
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遂に念願の愛岐トンネル群の路面に降り立ち ました! いやあ、本当にやっとです。 待たせたな! |
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案内板です。 ビールやお弁当も販売してるみたいですね! |
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3号始発駅だそうです(笑) 「旧国鉄トンネル群の廃線跡にようこそ!」 「この路線は4年間の難工事のあと明治33年に 開通しました。その後、東濃の檜など木材や良質 な陶土や陶器がこの路を通って名古屋へ運ばれ ました。富国殖産の当時、木材は車両製造(日本 車両など)や自動織機(豊田自動織機など)に、 陶土などはノリタケを代表する日本陶器として海外 へ輸出されるなど「ものづくり中部」の原型を作り 上げるための大きな役割を担いました。 身近にありすぎ気づくのが遅れた地域資産であ り宝であるこの施設群は、幸いなことに文化庁は じめ経済産業省や国土交通省に貴重な近代化産 業遺産として高い評価をいただき、また地元中部 大学にもご支援をいただくなどグローバルな支援 の輪が広がり始めています。そして開拓、発掘に 取り組んで9年あまり、全体像の1/3を解明するこ とができました。そこで多くの市民にこの姿に接し ていただき未来へ伝えるためのビジョンを大いに 議論していただきたいと願っています。 現在、尾張と東濃をつなぐルートは鉄道以外では 国道19号線と愛岐道路の2本しかありません。いつ の日にかこの廃線開拓が多治見まで延びて人に 優しい第3のルート「愛岐トンネル群ネイチャーロー ド」としてよみがえることを願ってやみません。 ~中略~ 旧国鉄中央線の廃線とトンネル群再生プロジェ クト NPO法人 愛岐トンネル群保存再生委員会」 |
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そして、こちらが「3号トンネル」 正確には「玉野第三トンネル」(約76m)となり ます。 「この坑門の壁柱(ピラスター)は、トンネル群の 中、唯一上部が細く下部が太くなっているなど、 細かな意匠が施されています。またトンネルの中 には唯一瓦礫が放棄されています。 これは昭和41年の新・中央線開設時に掘り出し た瓦礫を捨てた、いや、東海集中豪雨時の崖崩れ の廃棄場所になった。など諸説ありますが定かで はありません。 この広場には自生モミジも多く、眼下には庄内川 の水を農業用水に、また、下流の玉野水力発電所 へ導くため大正時代に作られた「玉野用水堰堤」 が見えます。」 現地案内板より。 |
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確かに!ピラスターが特徴的ですね!見事な面構えです。 機関車の"のれん"も悪くありませんね~ |
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翼壁のない冠木門タイプ。 巻厚5層の煉瓦馬蹄型アーチとなっています。 笠石、帯石、要石、隅石、ピラスター土台が切石 造りです。 胸壁、坑門、ピラスター全て煉瓦イギリス積みで す。 「登録有形文化財 第23-0460号」 「この建造物は貴重な国民的財産です 文化庁」 |
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小口2連、長手1連の積み合わせで構成される 隅石。馬蹄型に湾曲させており、その緻密な造作 が窺えます。 |
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内部です。見事にオール煉瓦です。素晴らしい! しかし、延長76mですか…もっとありそうに感じ ます。 |
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振り返り。 爽やかな皐月の風が抜けていきます。 |
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内部は電飾で灯されています。 所々に往時の遺物が確認できますね。 歩いていると、時折蒸気機関車の走る音と汽笛 が大音量で走り抜けます。 なかなか良い演出ですね! |
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多治見側に抜けてきました。 | |
玉野第三トンネル、多治見側坑門です。 木が遮り、全体像が中々写せませんね… |
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別アングルから。 ピラスターの重厚さが際立ちます。 |
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引いて撮影。 ここに蒸気機関車が走っていた時代があった なんて…。 今では信じられませんね~ |
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失われた橋梁。 橋台は遺されています。煉瓦も確認出来たと思 います。 松前洞橋梁 と思われます。 ※名称は、昭和8年中央本線各駅配線略図並 線路縦断面図より |
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木漏れ日の中の廃線跡ウォーキング。 たまにはこんな平和な探索もいいものです。 |
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案内板によると場内信号機の台座のようです。 「場内信号機(上)及び通過信号機(下)」 「場内信号機は駅への進入の安全を確認する 信号機です。 腕木式信号機では、場内信号機と急行などの通 過信号機と一緒に設置されていました。」 |
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とのたまさんが何か見ています。 そう、先程から気になっていた山肌側の落石 防護枠…これは古レールなのでは? |
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その通りなのでした! しかも刻印入りで、白く浮かせてくれております。 「CARNEGIE ET USA1919」 「カーネギー社エドガートムソン事業所 アメリカ1919年製造」 カーネギー社と言えば「鉄鋼王」として有名な アンドリュー・カーネギー氏の興した会社です。 カーネギーホールとかも有名ですね。 そして1919年と言えば、氏が亡くなった年でも あります。氏の残した遺産が、日本のこの地に廃さ れつつも構造物として残っているところが素晴らし いです。 「レールの生涯」 「(1)レールは線路として本来の役目を終える と、屑鉄となるか駅ホームの屋根や、鉄橋など鉄 道関連施設の骨材などにリサイクルされます。 2009年に改装された多治見駅ホームの屋根にも 利用していました。当時では3号トンネル多治見口 の落石防護柵や、5号トンネル春日井口近くの暗 渠の手すりや柵等として、今も現役で活躍していま す。 (2)我が国のレール製造は1901(明治34)年、 官営の八幡製鉄所で開始しましたが、輸入を絶っ て完全国産化を達成出来たのは1931(昭和6)年 の事。当時の開業は1900年7月25日ですから総て 輸入軌条によりスタートしました。やがて1966(昭 和41)年、当地で線路としての役目を終えると全国 各地の構造物や骨材となるべく旅立っていきまし た。」 |
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「(社章) NO 75 A 1911 ⅩⅡ」 八幡製作所 75ポンド(37kg)第1種 1911年12月製造」 こちらは国産ですね! 「レールの刻印」 「(1)国内外を問わずレール側面には「製造業者 (国名・会社名)」「規格(単位重量・形状)」「製造 時期(年・月)」などを示す刻印が施してありレール の出身を知ることができます。 この落石防護柵には次のレール刻印がありま す。 1、(八幡製作所)上記 2、KRUPP 1903 Ⅹ ドイツクルップ社 1903年 10月製造 3、(カーネギー社)上記 (2)国産レールの内、1904(明治37)年製造品 の刻印は日露戦争の影響もあってかほとんど発 見・確認されておらず「幻のレール」「ビンテージ・ レール」と云われています。また後に製造年代が 紀元節「2600年代」の刻印もあり製造された時代 の歴史的背景を我々にそっと教えてくれます。 今後、当地ではどんな刻印がみつかるでしょう か。」 |
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いろいろな国や会社のレールが集まって、一つ の構造物になっている訳ですね。 |
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廃線の残存物その1 下部の犬釘はよくみかけます。 左上の長細いのは軌条継目板、犬釘の上のボ ルトは継目板ボルトでしょうか。 |
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廃線の残存物その2 碍子の他、いろいろな部品が展示されています。 |
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道中、様々な展示や、遊具などがあり、子供た ちも飽きさせないように計らっています。 |
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「秋の公開にも来て」 はい!来たいです! |
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少し大きめの橋梁跡に来ました。 これは下を見てみないとな。 |
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おお!見事な煉瓦橋台。 桁も往時のものを使用しているんでしょうか? 畑ヶ洞橋梁 と思われます。 ※名称は、昭和8年中央本線各駅配線略図並 線路縦断面図より |
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イギリス積みの煉瓦橋台。 何の揺るぎも感じられません。 凄いですねえ。 まだトンネル1本しか見ていませんが、 以降 その3 に続く! |